数字を握るパティシエは、なぜ強いのか。商品開発者から経営者へ。


大阪に店を構えるパティスリー「Seiichiro,NISHIZONO」は、花やハーブを思わせる香りを取り入れた菓子づくりで知られる存在だ。
味覚だけでなく、香りの印象まで含めて記憶に残るその世界観は、同業者からも高い評価を受けている。
しかし、この店の強さを“感性”だけで語ることはできない。
その土台にあるのが、オーナーシェフ・西園誠一郎の数字への感度だ。
幼少期の環境、会社員時代の経験、雇われ社長として向き合った負債、そしてフリーランス期に培った判断力。
商品開発者としてだけでなく、経営者としても歩んできた西園シェフのキャリアは、いま多くのパティシエ、ベーカリーオーナーが直面する「技術と経営の両立」という課題に、明確なヒントを与えてくれる。

西園誠一郎が身につけた意思決定力

数字は“あとから学んだ武器”ではなかった
西園誠一郎シェフの数字感覚は、独立後に慌てて身につけたものではない。
その原点は、ごく自然な家庭環境にあった。
実家は自営業。
幼い頃から、店の売れ行きや日々の商売の話が、生活のすぐそばにあったという。
「ちっちゃい頃から、売れてるとか、今日はどうやったとか、そういう話は普通にありました」
経営を教え込まれた記憶はない。
だが、商売が“お金の出入りで成り立っている”という感覚は、理屈ではなく体感として身についていた。
その延長線上にあるのが、簿記3級の取得だ。
「なんで勉強したかは覚えてないんですけど、簿記3級は持ってましたね」
ここで重要なのは資格の有無ではない。
数字に対して距離を取らなかったこと、そして「わからないから避ける」という発想がなかったことだ。
多くのパティシエが、技術は磨いても数字は後回しにしがちななか、西園シェフは無意識のうちに“経営を見る目”の下地をつくっていた。

“雇われ社長”として向き合った、経営の現実
20代後半、西園シェフは心斎橋の店舗でシェフを務めていた。
立場はシェフでありながら、実質的には雇われ社長。
商品づくりに加え、店舗運営や経営判断までを任される存在だった。
その最中に起きたのが、リーマンショックによる親会社の倒産だ。
店舗は閉店し、未払いの負債だけが残った。
「雇われ社長だったんで、負債が一気に飛んできたんですよ」
本来であれば、責任の所在を切り分けても不思議ではない状況の中、西園シェフは、数字から目を背けなかった。
「ちゃんとしとかんと、後々困るなと思って」
その判断の結果、残った負債はすべて返済した。しかも、その期間は約1年以内だったという。
経営とは、理論や肩書きではない。数字と責任を引き受ける覚悟だ。
この経験は、西園シェフにとって「店を続けるとはどういうことか」を身体で理解する決定的な出来事だった。

フリーランス時代に鍛えられた“判断の軸”
店舗を離れた後、西園シェフはフリーランスのパティシエとして活動を始めた。
当時、この働き方はまだ珍しく、ほとんど前例がなかった。
現在では広く受け入れられているが、当時フリーランスのパティシエはほとんど存在せず、西園シェフはその道を切り拓いた第一人者となった。
だからこそ、企業からの依頼が集まったと西園シェフは言う。
パティシエを自社で雇用して、正社員としての固定コストはかけられないが、商品を見極め、提案できる存在が求められていた。
仕事を受ければ収入になる。
断ればゼロになる。
フリーランスは、すべてが数字として返ってくる働き方だ。
「皆さんが仕事を持ってきてくれて、それで返させてもらった感じです」
そう振り返るように、この時期は、仕事を重ねることそのものが、生活と返済を支える現実だった。
この経験が、のちの店舗経営における意思決定の速さとブレなさにつながっていく。

数字を握るから、経営は迷わない
西園シェフの経営観に共通しているのは、数字を“攻めるための武器”としてではなく、整えるための指標として捉えている点だ。
「入ってくるお金と、出ていくお金のバランスを見るのが大事やと思います」
売上を伸ばす前に、構造を見る。
原価、人件費、日々の回転。数字を把握しているからこそ、感情に引きずられず判断できる。
この姿勢は、現場に立つか任せるか、自分が入ることで本当にプラスになるのか、そうした日常的な選択にも表れている。
数字があるから、引ける。数字があるから、任せられる。経営を“感覚”だけにしないことが、店を長く続ける力になる。

若手へのメッセージは、驚くほどシンプルだった
取材の終盤、こんな問いを投げかけた。
「どれだけ腕があっても、数字を見る力は必要だと思いますか?」
西園シェフの答えは即答だった。
「絶対いると思います」
派手な言葉はない。だが、この一言には、商品開発者として、雇われ社長として、そしてフリーランスを経て経営者になった、すべての経験が凝縮されている。
技術を磨くことは前提だ。
しかし、店を続けるためには、数字と向き合い、現実を引き受ける覚悟が必要になる。
西園誠一郎が示すのは、数字を理解することで、職人はより自由になれるという事実だ。
それは、いま経営に悩む多くのパティシエ、ベーカリーオーナーにとって、
確かな指針となるはずである。
